日中を結ぶオフショア開発で夢を叶えた女性起業家
弱冠33歳の女性起業家だ。コンピュータグフィックス(CG)の技術を用いたアニメーションや建築用のパース図の製作など、日本のクリエイティブ産業の製作をオフショアサポートする会社を上海で興した日本人女性の素顔に迫った。
上海で起業したのは2005年5月。ここへたどり着くまでに彼女が歩いてきた道は、消して平坦ではない。東京の有名私立高校に入学後、たった3ヶ月で自主退学してしまった時、すでに「人生最大の転機を迎えた」と田中延枝さんは振り返る。
小さい頃から成績はトップクラス。学校からも、親からも前途を嘱望されていた。しかし早熟だったからこそ、社会の矛盾に敏感すぎたのかもしれない。「受験戦争が熾烈を極めた時代。偏差値だけで人が評価される。ちやほやされたが、何の目的もないまましかれたレールに乗っていくことに戸惑った。その前にただ考える時間が欲しかった」
母親からは勘当同然の扱いを受け、自分で生活費を稼ぐためにバイトを始めた。時代はちょうどバブル全盛期。そのまま一流高校、一流大学と順調に進んでいく友人たちを見送る中で、「焦りを感じた」。自分が社会の中でどんな存在となればいいのか?人としての存在価値は何なのか?―かつて周囲から期待されていたような優等生の道からは完全に外れてしまったからこそ自分で考え、自らの力で新たな存在価値を生み出さなければならないと考えるようになっていた。
大検をお受けた後、武蔵野美術短大でプロダクトデザインを専攻。そんな時間に前後して、どこでも自由に行くことが出来るバイクが好きになる。毎日乗り回すほど「バイクが人生の中で大きな位置を占める」ようになり、本田技研工業氏に憧れた。「世界の本田になる」と創業当初から夢を語り、どんな苦しい時でもポジティブさを忘れず努力し続けた本田氏のいき様に、自分の将来像を重ねた。いつの間にか「中国で起業して第2の本田宗一郎になる」と周囲にも語るように。本田氏のように、自分の力で起業することが、自分の存在意義だと考えるようになっていた。
短大を卒業後、オーストラリアの語学学校で英語と大学でさらに工業デザインを計4年間勉強した後、日本へ帰国。工業デザイン事務所とノベルティギフト商社などでの勤務を経て、03年12月に中国に渡ってきた。起業する夢を実現するためだった。
1年間身を置いた上海の日系広告企画製作会社で、現在の起業もとになるビジネスのアイデアが生まれる。国際都市上海には、日本と比べるても遜色のない高いコンピュータ関連の技術力を持った人材が埋もれている。その技術力を求める日本の顧客とを結びつける事を思いついたのだ。独自の資本によって完全独立する形で企業を果たした。
スタート1年目は、中国人女性パートナーの肖娜さんと共に「とにかく無我夢中では知り続けた」という。日本でも着々と築き上げていた600人以上に及ぶ人脈が助けになり、顧客にもなった。設立当初より無借金黒字経営を続け、規模を拡大。起業2年にして現在社員は中国人CGクリエイターら12人を抱える。「いずれ100人ぐらいまで拡大し、将来的には香港市場へ上場できるように成長させたい」。田中さんの夢はこれからが本番だ。