16人目 成功のカ夕チ
1973年、東京都生まれ。武蔵野美術短大卒業後、オ―ストラリア留。メルボルン工科大学デザイン建築学部工業デザイン学科卒業。帰国後、ギフ卜商社などでデザイナーとしての経験を積み、2003年上海へ。1年間の会社勤めを経て、2005年「上海枢軸数碼科技有限公司」を設立。ブ口グhttp://plaza.rakuten.co.jp/jannetanaka
タイ厶リミツ卜を設定
中国で起業をする―。武蔵野美術短大の頃からそんな夢を持つていました。短大でなたはプロダク卜デザインを専攻していて、製造業の歴史を学びました。日本の高度経済成長を支えた製造業ですが、その成長は止まつている。ならばこれから成長していく国、中国で働きたいと思つたんです。
夢がある一方で、世の中は就職難にあつて、仕事が見つからない自分がいる。ずいぶん葛藤がありました。勉強をやり直そうと工業デザインの本場・イタりアへ留学しようと思い、オーストラりアで働いていた姉に相談すると、なんと「オーストラりアに来れば?」と言うんです。「どこへ行くにしろ英語を覚えて損はない。イタリア人も中国人もたくさんいるから、友達になって現地の情報や言葉を教えてもらえばいい」と。その一言に、うだうだと日本で悩んでいるよりは世界を見てみようと思いました。
学期中は勉強に専念、休暇中は友人と立ち上げたスモールビジネスに励みました。中国人やいろんな国の友人も作ることができ、充実した4年間でした。帰国後は、工業デザイン事務所へ就職。その後、ギフト商社へ転して、ノべルティーグツズの企画・デザインを担当しました。飲料・通信・医療・自動車など、ありとあらゆる業界のさまざまな商品を扱える面白い仕事でした。
2年半ほど経つと、ある程度デザイナーとしての経験も積め余裕も出てきます。その頃、年下の人たちから進路相談を受けるようになっていんですが、そうすると自分自身を振り返るわけです。私はまだその頃、旅行でさえも中国へ行ったことがなかったんですね(苦笑)。このままではダメだ、タイムリミットを設定しようと思い、10ヵ月後の2003年4月までに中国へ行き、働こうと決めました。実際に働き出すのはその半年後でしたが。
どんな仕事でもいいから中国へ行ければいいと思っていた。福建省にある大学の日本語教師のポストが見つかったので、会社を退職しました。それで本格的に渡航する前に、将来のビジネス展開ができる場所を決めておこうと北京、大連、上海を回ったんですね。起業するなら一番活気のあった上海だ、と思いました。
ところがビザ関係の書類を待っているのに、連絡が全く来ない。しばらくすると、「来学期から来てほしい」と言われて……。すで二仕事は辞めていたから、何とか別の手を考えるしかない。ボランティア団体の紹介で、同じく福建省の日本語学校へ行くことになりました。無報酬ですが、生活は保障してもらえるという条件でした。
上海経由で福建省へ行くことになっていたので、上海へ着くと、事前に連絡をしておいた日系人材紹介会社へ登録に行きました。するとタイミングよくノベルティーグッズの生産管理の求人があったんです。福建省から面接に通って、1ヵ月ボランティアをしている間に新しい就職先が決まりました。
3年くらいは働くつもりだったんです。ところが、1年後に「契約は更新しない」と社長から告げられて。「クビか?」と思いましたよ。就職面接時から独立の意志を伝えていて、社長は社員の独立大歓迎という考えでしたから、私の背中を押してくれたんですね。同じ業界で起業すれ場、この会社とパートナーシップを組むことも可能でしたが、体カ的にも精神的にもキツく長く続ける仕事ではないなと思いました。またリスクも大きかったので、全く新しい業界でやっていくことにしました。
中国で働くことの強みを生かす
いい巡り合わせと縁のおかげで、ここまでやってきました。意味のない出会いはないと思うんです。会社を設立した時も知人・友人にEメールを約600通送りました。そのメールがきっかけで業界の方々を紹介していただいたりもしました。今の中国人パートナーと知り合えたことにも、とても感謝しています。彼女は日本語が堪能で、すごく頑張り屋。そのうえ、性格もいい。引き抜き話やいい就職先もあったのですが、企業計画を話すと迷わず私についてきてくれました。
3次元CG動画を中心としたデザイン・設計・セールスプロモーション用のデジタルツールを作成していますが、今は主に不動産物件のCG動画を扱っていて、顧客は日本の会社です。上海に会社があることでコスト競争力がありますし、中国は人が多いのでスタミナもある。短い納期でボリュームのある仕事にも対応することができます。日本の顧客との距離感は、感じませんね。メールやチャット、IP電話で遣り取りしていますが、ほとんど支障はありません。皆さんお忙しいですから、かえって会わずにすむのは時間短縮ができてよいと思われているようです。
日本の顧客は私、中国側の技術制作チームをパートナーが担当するというふうに役割分担しています。日本と中国では仕事に対する考え方も違うので、中国の人からすると、時に日本側の要求が過剰で細かく思えます。納期の関係でムリをさせることもあって、相手が中国人だから日本人はムリな要求をするのだと誤解されたこともありました。一つ一つ誤解を解き、理解を深めていくしかないですね。
今後は大陸の中国系企業にアピールもしていきたいですし、CGだけにこだわってもいません。グローバル・クリエイティブ・アウトソーシングサポートというのがテーマなので、顧客の規模もグローバルに考えています。目標やプランはありますが、自然の流れ絵に沿いつつ柔軟に進んでいきます(笑)。上海には少なくとも2010年まで入ることになると思います。成長真っ只中の場所に身を置き、自分も一緒に走っていきたいですからね。
そして1年4ヵ月後
自宅兼事務所にしていたマンションの一室から、繁華街の表通りに面するオフィスビルの高層階に田中さんの会社は移転していた。ガラス張りの社長室から現れた彼女の姿には社長としての落ち着きが備わっていた。充実している人の顔だ、いい顔になっている、そう思った。人は短期間でもこんなに表情を変えるのだ。
「以前来ていただいた時は自転車操業状態でしたからね。昨年(2006年)夏に、日本の会社と長期の業務提携をしたいという話をいただきまして、チャンスだと思い、秋から共同プロジェクトとしてCGアニメを使ったパチンコソフト制作を始めました。それに伴って人員を増えています」
なんでも最近のパチンコは進化していて、ゲーム性を高くCGも多用しているのだとか。コスト面もさることながら、派手で斬新な発想がソフト開発には求められる。日本人よりも中国人デザイナーのほうが適任ではないか、と彼女の会社に白羽の矢が立った。
「私のブログを見てご連絡をくださったんですが、一度会っただけですし、ましてやゲームの実績がなかったにもかかわらず『あなたのことは信用できるから一緒にやりたい』と言ってくださって……。一度しかあったことのない方やお会いしたこともない方からの紹介からビジネスに繋がったり、今回のようにお客様のほうから私達を探し出して会いに来てくださったりと、不思議な人の縁に助けられてここまでやってくることができました」
言葉を選びながら静かな声で話す彼女だが、熱い思いとひたむきさがジワジワと伝わって、的確なアドバイスを与えてくれるという。
「私はまだ長者番付に登場するような成功者でも有名人でもありませんが、自分の目指す夢や目標に向かって進み、成果を出し続けていることや、常によき理解者や協力者に囲まれて人間関係も充実しているという点では、人生に成功しているほうだと自負しています」
直近の目標は、2011年の上場か、売却だ。金銭的に余裕ができれば田舎に学校を寄付したいという当初からの思いも実現できるはずだ。