登校拒否、大検、留学。自流貫きいま上海ドリームに賭ける33歳
「中国人も外国人も、上海で仕事をしている人たちは、いきいきして目が輝いている」上海訪ねた人たちが、異口同音に語る言葉だ。たしかに経済発展と国際化が進む上海は活気に満ち、ステップアップをめざす人たちにとって最高の舞台だ。
田中延枝さんも、そんな舞台で大きく羽ばたこうとしている。
(LUCi 2006年10月号 取材・文/堀江瑠璃子 写真/篠崎 律)
世界の中心上海で起業する ボブヘアの野心家
成田空港11時20分発JAL619便に乗ると、約3時間のフライトで現地時間13時30分に上海の浦東国際空港に到着する。荷物検査や入国審査に要する時間を見ても、市内のホテルに15時過ぎにはチェックインできると計算していたが、間違いだった。なぜかといえば、入国審査の行列がスゴイ。遅々として進まない列に並んでいると、次々に到着便のアナウンスがあり、そのたびに行列がさらに長くなる。
調べてみたら、日本と上海を結ぶ直行便だけで1日40便もあり、東京や大阪からのほか、広島、鹿児島、富山、仙台など地方からの便も多い。もちろん、韓国やシンガポールからも頻繁にあり、加えて欧米からも相当な便数があるのだから、「なるほど、今世界の中心は上海なんだ!」と実感させられる。
空港からタクシーで約40分。上海の中心部へ向かうと、大通りはモダンなビルが建ち並び、摩天楼もあちこちにそびえ立ち、この国際都市が急速な経済発展を遂げ、今なお進化し続けていることが読み取れる。
「’08年には北京オリンピック、’10年には上海万博がありますからね。上海はまだまだ当分世界のヘソであり続けますよ」上海に住む多くの中国人や外国人が、口をそろえる。だからこそ、大小さまざまなビジネスチャンスを狙って、世界中の企業や野心家たちが上海をめざす。
ボブヘアの笑顔が明るい田中延枝さんは、一見そんな野心家の一人とは見えない。ところが、’03年に上海に住み始めてから、あらためてこの町に東京やメルボルンにはない魅力と熱気を感じ、学生時代から漠然と何か事業をしてみたいと思い続けていた願望に、思い切って挑戦してみようと決意した。きっかけは、上海で一年契約で働いていた会社の社長に「今の形での雇用契約は更新しない」と、宣告されたことだった。
青天の霹靂だったが、「日本に帰るのが嫌だった」田中さんは、社長と話し合い、独立して自分のやりたいことをやり、そのうえで、前の会社とのパートナーシップが組めるようであれば組む、という道を選ぶ。それからわずか3か月、紆余曲折を経て田中さんが立ち上げた会社(アクシス・クリエーション上海)。日本語の会社案内の表紙にタイトルとしてうたっているのは、「日本品質のCG,、WEB、映像技術を上海から…」
高品質、スピード、コストで勝負。パートナーは中国人
アクシス・クリエーションは、上海の中心部から南西のオフィスと住宅が混在する大きなビルの19階にある。ミーティングルームの奥にあるオフィスをのぞいた第一印象は、若い!CEOの田中さんも33歳の若さなら、パソコンの前に働いている数人のスタッフは、長身の肖娜(シュオ・ナ)さん。名刺には「取締役/総経理」とある。田中さんによれば、前の会社を辞任して独立するに当たり、どうしても必要だったことが、肖さんをパートナーとしてもらうことだった。大連で日本語を学び、日本語が堪能な肖さんは、上海で日本企業関係の仕事をしていて、田中さんと出会った。たちまちな意気投合した二人は、すぐ打ち解け合った。
「中国で起業するには、中国人の名義で中国の会社として申請するほうが許可が取りやすいんです。肖とは知り合って4か月目でしたが、絶対的に信頼し合ってましたから、すぐ二人で一緒にやろうという話になりました」と田中さん。資金は日本の常識よりずっと少額なので、田中さんがすべて調達した。
一方の肖さんは二人の仲について、「まだ若いノブエが中国で大きな挑戦をしたいと聞いて、私はすぐ助けてあげたいと思った。ノブエは責任感の強い人ですから、信用できます。ただ、仕事が始まってからは、困ることともある。ノブエは絶対に妥協しないで、我を通そうとする。日本人と中国人のやり方は違うところもたくさんある。どうすればベストか、二人でよく言い合いします。」
パートナー同士が率直に言い合うからこそ、業績が上がっているのかもしれない。
アクシスが現在手がけている仕事を具体的に聞くと、田中さんが壁のパネルを指しながら説明してくれた。それは日本のある住宅建設会社の注文で、近く完成予定の建売住宅の三次元のCG動画や完成予想図としてビジュアル化するもので、モデルルームやパンフレットなどに使われるという。アクシスのセールスポイントは、日本語や英語が通じることと日本並みの高品質のものを短時間で仕上げ、安く提供できる事だ。
「中国は、人材が豊富で労働力が安い。そのうえ労働時間にも縛られないので、スピードとコストの面で競争力があります。今はネット時代なので、日本と上海という距離による時間的ロスがないのもメリット」
田中さんは、こう説明する、そして将来は、得意の英語力を生かして顧客を英語圏にも広げたいという構想ももっている。起業1年余りの田中さんの仕事ぶりについて、ワイズインテグレーション上海事務所時代の田中さんのボスで、日本の同社社長でもある小林正晴さんは、「田中さんはもともとガッツのある人ですが、異国で異国人を使いながらのビジネスは大変です。しかし、最初の1年を見る限り、期待以上にやっていますね」と多角評価している。
登校拒否、家出、高校中退。豪州留学が人生の転機に
「上の娘より4歳年下の延枝は、のびのび育てせいかマイベースの子でした。小学生の時、何か悪い事をして私に怒られて追い出せれても、友達の家にそのまま遊びに行って、私が「帰ってこない」と言うまで帰らなかったり、登校拒否もありましたし、中高生の時は家出も頻繁に。母親として精神的につらくて苦しい時期もありましたが、そんな生い立ちがあって今の延枝がある、最近ではそんなすうに思えてなりませんの。私も生まれ変わったら、延枝のように自由に生きてみたいと思います」
田中さんの母悦子さんは、今しみじみとこう語る。
子供時代の田中さんは、スポーツ万能。いつも短パンをはいて男の子のように活発だったが、成績も優秀で高校は私立の名門成蹊高校に合格した。ところが田中さんは、たった3ヶ月通学しただけで、親や周囲には理解しがたい理由で中退してしまい、家を飛び出して中国雑貨店で時給800円のアルバイトをしながら自活を試しみた。しかし、無理な生活がたたって体調を崩して実家に戻り、両親の説得もあって大検の準備を始めた。工業デザインの仕事に興味を抱いて、武蔵野美術大学短期大学部に進学した。
卒業した’95年は、バブルがはじけた時でもあり、短大卒の就職は厳しかった。そんな折、オーストラリアのメルボルン郊外でゴルフ場を経営する叔父の秘書として働いている姉に「オーストラリアに留学して勉強をやり直してみては」とすすめられた。メルボルンで最初の年は語学学校に通い、翌年にはメルボルン工科大学に入学、環境工科部デザイン科で学びながら4年間の学生生活をエンジョイした。恋愛も経験し、ボーイフレンドとは共通の趣味モーターバイクからヒントを得て、バイクのガソリンタンクガードを考案。メルボルンとブリスベンのバイク屋で売ってもらった。田中さんの父親は、保険会社のサラリーマン。娘の留学中の送金は相当な負担で、母親の悦子さんは保育士として働き、5年間なんとか送金を続け、田中さんはメルボルン工科大学を無事卒業した。
上海の魅力の虜になって 日本から人材会社へ登録
メルボルンから5年ぶりに帰国した田中さんは、広告企画会社などで4年間働き、企業のノベルティグッズなどの企画デザインで頭角を現した。あるテーマバークのアニバーサリー記念品で、ストローをマイクに見立て、人気キャラクターが歌っているデザインのボトルキャップをデザインし好評を得る。また、ある大手子供向け教材販売会社の水をテーマにした立体付録で、人気キャラクターをモチーフにした水鉄砲、水車、バケツなどをモチーフにした水遊びセットを企画・デザインして、コンペに勝ち残り、商品化に成功した。
行動派の田中さんは、夜の時間や週末を利用して、異業種交流会や勉強会などに出席し、積極的に人脈を広げ、さまざまな情報を吸収した。中国への関心も、そんななかから深まり、’03年には夏休みを利用して1週間、北京、大連、上海を旅したが、案の定上海の魅力の虜に。帰国するや、上海にある日系人材派遣会社にアプローチするが、実際に上海に登録しないと、紹介できないと言われ、「とにかく、中国のどこでも飛び込もうと」決めて、運よく福建省で日本語教師の仕事を見つけ、とりあえず福建省の田舎町に引っ越す。その1か月後、人材派遣会社からワイズインテグレーションの紹介を受け、採用が決まり、念願の上海へ。
上海生活2年余り、人脈を武器にもする田中さんの交友関係は、実に幅広い。2か月に1度は開くという自宅での餃子パーティには、たいてい20人か30人が集まる。弁護士、医者、新聞記者、実業家、ビジネスコンサルタント、秘書、アーティストなど、国籍も年齢もさまざまだ。餃子作りの名人は、やっぱり肖さん。挽肉入りと野菜入りの2種類を皮から作る。1回のパーティで用意するのは400個。パーティ開始3時間前から日中のボランティアが駆けつけ、見よう見まねで作る。コップで中国ワインを飲みながらできたての餃子をお張り、議論に花を咲かせる。東京から連れてきた16歳になる田中さんの愛猫ジュニアも、参加する。パーティが好きな半面、孤独を愛す田中さんもいる。茶館で読書にふけったり、インラインスケートでスピード感を楽しんだり。どんなときも田中さんの胸には、開運のペンダントが揺れている。