中国で起業する!10年越しの夢を実現
短大時代に抱いた「いつか中国で起業する」という夢を胸に秘めながら、デザイナーとしての知識や技術をオーストラリアで蓄え、日本の現場で経験を積んできた田中延枝さん。夢をかなえるまでの10年間と現在、将来の夢について聞いた――。
成長する国、中国で働きたい
中国で起業する――。武蔵野美術短大のころからそんな夢を持っていました。短大ではプロダクトデザインを専攻していて、製造業の歴史を学びました。日本の高度経済成長を支えた製造業ですが、その成長は止まっている。ならばこれから成長していく国、中国ではあたら期待と思ったんです。
夢がある一方で、世の中は就職難で仕事が見つからない自分がいる。ずいぶん葛藤がありました。勉強をやり直そうと工業デザインの本場、イタリアへ留学しようと重い、豪州で働いていた姉に相談すると、なんと「豪州に来れば?」と言うんです。イタリア人も中国人もたくさんいるから、友達になって現場の情報や語学を教えてもらえばいい、と。その一言に、うだうだと日本で悩んでいるよりは世界を見てみようと思いました。学期中は勉強に専念、休暇中は友人と立ち上げたスモールビジネスに励みました。中国人やいろんな国の友人も作ることができ、充実した4年間でした。
帰国後、工業デザイン事務所へ就職。ギフト商社へ転職して、ノベルティグッズの企画・デザインを担当しました。飲料・通信・医療・自動車などありとあらゆる業界のさまざまな商品を扱える面白い仕事でした。
タイムミットを設定
2年半ほど経つと、ある程度デザイナーとしての経験も積め、余裕も出てきます。そのころ、年下の人たちから進路相談を受けるようになっていたんですが、そうすると自分自身を振り返るわけです。わたしはまだそのころ、旅行でさえも中国へ行ったことがなかったんですね(苦笑)。このままではダメだ、タイムリミットを設定しようと思い、10ヶ月後の2003年4月までに中国に行き、働こうと決めました。実際に働き出すのはその版念後でしたが。
どんな仕事でもいいから中国へいければいいと思っていました。福建省にある大学の日本語教師のポストが見つかり、退職。本格的に渡航する前に、将来のビジネス展開の場所を決めようと北京、大連、上海を回り、起業するなら一番活気のあった上海で、と思いました。
ところがビザ関係の書類を待っていましたが、連絡が来ない。しばらくすると、来学期から来て欲しいと言われて…。すでに仕事は辞めましたから、ボランティア団体の紹介で、同じく福建省の日本語学校へ行く事になりました。無報酬ですが、生活は保障してもらえるという条件でした。上海経由だったので、事前に連絡しておいた日系人材紹介会社へ登録に行くと、タイミングよくノベルティグッズの生産管理の求人があったんです。福建省から面接に通って、1ヵ月ボランティアをする間に新しい就職先が決まりました。
3年くらいは働くつもりでしたが、1年後に「契約は更新しない」と社長から告げられました。クビか?と思いましたよ。就職面接時から独立の意志を伝えていて、社長は社員の独立大歓迎という考えでしたから、この会社と押してくれたんです。同じ業界で起業すれば、体力的にも精神的にもキツく長く続ける仕事ではない。またリスクも大きかったので、全く新しい会社を作る事になりました。
中国で働くことの強みを生かす
いい巡り合わせと縁のおかげでここまでやってきましたが、今の中国人パートナーと知り合えたことにも感謝しています。彼女は日本語が堪能で、すごく頑張り屋。そのうえ、性格もいい。引き抜き話やいい就職先もあったのですが、起業計画を話すと迷わずわたしについてきてくれました。
3次元CG動画を中心としたデザイン・設計・セールスプロモーション用のデジタルツールを作成していますが、今は主に不動産物件のCG動画を扱っていて、顧客は日本の会社です。上海に会社があることでコスト競争力がありますし、中国は人が多いのでスタミナもある。短い納期のボリュームのある大きな仕事にも対応できます。
日本の顧客との距離感は、感じませんね。メールやチャット、IP電話でやりとりしていますが、ほとんど支障はありません。皆さんお忙しいですから、かえって会わずに済むのが時間短縮できて良いと思われているようです。
日本の顧客はわたし、中国側の技術制作チームをパートナーが担当するというふうに役割分担しています。日本と中国では仕事に対する考え方が違うので、中国の人からすると、時に日本側の要求が過剩で細かく考えます。納期の関係で無理をさせることもあって、相手が中国人だから日本人は無理な要求をするのだと誤解されたこともありました。
一つ一つ誤解を解き、理解を深めていくしかないですね。
今後は大陸の中国企業にアピールもしていきたいですし、CGだけにこだわってもいません。グローバル・クリエーティブ・アウトソーシングサポートというのがテーマ名阿野で、顧客の規模もグローバルに考えています。ある程度の目標やプランはありますが、自然の流れに沿いつつ柔軟に進んでいきます(笑)。上海には少なくとも万博開催の2010年まではいることになると思います。成長真っただ中の場所に身を置き、自分も一緒に橋って行きたいですからね。
――「意味のない出会いはないと思う。感謝の気持ちを忘れずにいきたい」と話す田中さん。出会いと縁を大切にしてきた彼女が会社設立時に、知人・友人に送信したEメールは600通。ひた走る姿に共鳴する人、応援する人が節目節目に現れ、10年越しの夢の実現につながった。諦めなければ夢は必ずかなうのだということを教えてくれています。(中国語ジャーナル 取材・構成/フリーランすらイター 須藤みか)